普通の会社員として生きるのは簡単じゃなかった。
やりたいことがみつからず、決断を先送りにし、何となく大学へ行き、何となく就職…。
なぜそうなったのか…?
壮大な夢や目標は無かった。ただ、自分自身平均的に頑張って勉強に励んできたという思いはあった。自らが平均的であるという思いもあった。
だから、私も、父のように、普通に会社員になり、それなりに幸せにやっていけるものだと思い込んでいた。
しかし、世の中は変化していく。そして、他者の苦労は、外からは見えないことが多い。
ビジネススキルを磨く努力など一切してこなかった、意識が低すぎる、社会のことを知らなさすぎる中身すっからかんの自分にとっては、就職先での日々は非常に辛いものだった。
毎日、7時に出社し、深夜2時に仕事を無理やり切り上げ、タクシーで帰宅。すぐに起き、再びタクシーで出社する日々…。
自分が何がしたいのか?どうしていきたいのか?何を改善すればいいのか?…等々それらすべてを考えるための精神のゆとりは失われ、ただ、ひたすら、会社に迷惑をかけることのないよう、日々粉骨砕身の日々であった。
ただ、一つ、わかっていたこと…。それは…
「この環境にずっとい続けることは自分にとっていいことはない。」
ということだ。
私が、勤務していた職場は川崎の埠頭、工業地帯にあった。毎日、ヘロヘロに疲れ切った身体でタクシーの車窓から、工業地帯の青白く光る夜景を見つめる…。
暗い中、幻惑的に光る青白き光景は、自分自身の迷える実情をそのまま反映しているかのようで…当時の私には、キレイ・・とは映らなかった。
無休でも俺は身を削って働く事件
20年以上経った今振り返ってみる…当時の異常さを表している出来事を一つ挙げることが出来る。
当時、「残業代が多すぎる!」と上層部から言われていて、当時の私のパワハラ全開の上司は、「仕事は完璧にしろ!だけど、さっさと帰れ!」と私を怒鳴り散らす日々…。
システム的にそんなことは当然できず、更に、当時の私には、現状を理解する力も改善する力も、何が正しくて何が間違っているかを判別する力もなく…
二者択一で仕事の正確さをとり、残業を減らすことは出来ずにいた。
そんな折、状況を見かねたパワハラ上司の更に上の本社の管理職Mが、私と面談を行うことになった…。
M氏は、「なぜそんなに残業するのか?」と聴いてきた。その聞き方に優しさはない。”残業代を稼ぎたいからわざと残っているのだろう?”という疑いのニュアンスが含まれていた。
私は、「仕事が回らないからです。」というニュアンスのことを言った。
すると、M氏は、「では、君は、残業代が出ないとしても、それでも、仕事のために残業をするというのかね?」と聞いてきた。
私は、「はい。私がやらなかったら、在庫はぐちゃぐちゃになります。製造ラインはパニックになり、配送のトラックは大渋滞します。そして、それら全ての仕事上での尻拭いをしなければならないのは最終的には自分なのです。だから、自分がやるしかないじゃないですか?」
と怒りを込めた口調で言った。M氏は、こいつ何言ってるんだ?言っている意味がわからない。といった表情を浮かべていたのを今でも思い出す。
パワハラ上司に、頭ごなしに、キャパオーバーのことを「完璧にやれ!」と言われ、ミスしたら、大勢の前で「ア〇、バ〇、〇ス、〇ね!」と怒鳴られる。更には、毎日3~4時間しか寝ることが出来ない環境…。
そんな状況でまともでいることの方が難しい…。後から、そして、外から見れば、明らかに異常な状態であることは明らかなのだが、その渦中にいるとそれを判別することは難しい。
世の中には、このような状況で苦しんでいる人がたくさんいると思う…。もし、この文章が、仕事を管理する側の人間に届き、苦しんでいる人の環境が改善されることに役立つのであれば本当にうれしく思う。
たかが仕事事件
何となく就職した会社…一度だけ、辛さの一線を越えてしまい、後先考えず、全てを捨てて、”辞めなきゃ生きていけない…”と上司に「辞めます。」と言ったことがあった。
入社2年目の6月くらいのことだ。相手は、先述しているパワハラ上司ではない。その上の課長Nさんだ。
私が「辞めます。」と言うと、N氏は、この発言が先を見通しての発言ではなく、私にとって得策ではないと思ったのか、このように言ってくれた。
「伊勢谷~たかが仕事じゃんかぁ…もっと軽く考えたらいいんだって!」
”たかが仕事…”
当時はこの言葉の意味をキチンと理解してはいなかった。しかし、私は、
”俺はまだ本気と言えるほど頑張ってはいない…。もう少し頑張ってみよう…”
という気になった。結果、4年間仕事を続けることが出来た。
どんなに責任の重い仕事も、どんなに立派な仕事も、”たかが仕事”でしかないのだ。それを忘れてしまっては、自らの責任感・使命感に自らが焼かれることになってしまう。
マッサージ店で号泣事件
会社員生活の苦しさから逃れるため・軽減するために何か良い物はないかと考えるようになった。
思いついた中の一つが、「マッサージ店に行く。」であった。
当時住んでいたのは神奈川県川崎市。なけなしの休日。休みがもうわずかだな…とブルーな気持ちになって、川崎駅から続いている道をぼぉっと歩いていたところ、ふと見つけたマッサージ店にふらふらと私は入っていった。
マッサージ店では、カタコトの外国人?男性が施術対応してくれた。
40分コースだっただろうか…コースも中盤くらいに差し掛かった頃…その施術者さんが「桜がキレイに咲いてますよね…」と言ってきた。
私は、その言葉を聞いて、号泣してしまった。うつぶせになっていたので、バレなかったと思うが。
俺は、桜が咲いていることを施術者に言われて初めて知ったのだ。仕事のことで頭がいっぱいで桜が咲いていることに気が付いていなかったのだ。
- 施術者の私を気遣うココロ
- 施術者との人間らしい会話・話題
が今の自分がいかに
- 限界を超えて頑張っているのか?
- 異常な精神状態であるか?
を気づかせてくれたのだった。
様々なセラピストとの出会い。
マッサージ店での号泣事件以来、私はマッサージを始め、整体、リフレクソロジーなど様々な癒しのお店に行くようになった。
そういったお店に通うことで、セラピストに共通することを発見することとなる。
「セラピストは、皆、私のように、自分の手に負えない仕事に押しつぶされて精神を病んでいることはない。」
ということ。
勿論、セラピストにはセラピストの悩みがあるものだが、ここではそれは割愛する。
当時の自分の手に負えない仕事に押しつぶされている私にとっては、彼らは皆、輝いて映っていた…。
そうなると、セラピストってどうすればなることが出来るのだろうか?という興味も湧いてくる…。
「マッサージ師など国家資格を取るにはお金も時間もかかるけど、整体師とかカイロプラクターとかなら、すぐになれるよ。」
行きつけのマッサージ店の店長さんが私に教えてくれた。
現在の妻と出会う。
「整体師とかカイロプラクターとかなら、すぐになれる。」とわかったからといって、すぐに行動を開始したわけではなかった。
辛いことであると認識していたが、それでも、無限に自分の前に現れる仕事を、周囲に迷惑が掛からないように120%の力でこなすことに精一杯で、「転職するにはどうすればいいのか?」といったことに精神・時間を割く余裕がなく、日々をただ、必死に消化していたのだ。
そうこうしているうちに、「自分がセラピスト…」という発想が、脳の奥底に埋もれていってしまった。
あのままの日々を続けていたら、今頃俺はどうなっていたのかなぁ…20年以上経った今でもたまにそう思うことがある。
そんな変わり映えのない苦しい日々を送っている中、現在の妻Iと出会う。Iは、派遣社員として、私が勤務する職場に入ってきたのだ。
しばらくして、私たちは付き合い出す。で、付き合い出してしばらくし、同棲することとなり、結婚を意識することになる。
”結婚したら、子どもが出来るんだよな…家庭を持つわけだよな…でも、今のままじゃ、子どもとか家庭どころじゃないぞ。だって120%で臨まないと俺は仕事をこなせないのだから。”
まだ、社会経験に乏しい当時の私はそんな風に考えていた。
”結婚するのであれば環境を変えなければいけない!”
と考えるようになった。幸いIは、私が転職することには肯定的であった。そして、I自身も複数の転職を経験していたため、転職するにはどういう手続きをする必要があるのかなどやたら詳しく、転職へのハードルが随分と低くなった。
しかし、当時の自分はこのようにも考えていた。
”転職したって、会社員が抱える責任は大なり小なり変わらないのでは?嫌な上司だって、どこに行ったってそれなりにはいるものでしょ?であるなら、転職という行為は根本的解決にならない行為なのではないのか?”
であるなら、どうすればいいのか?そんなことを考えていると、大学時代のあるシーンが頭に浮かんできた。
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私は、大学時代、和歌山に住み、空手の道場に通っていた。その道場のとある先輩Tさんが私をよく可愛がってくれていたのだが、Tさんは、独立して自宅兼職場である板金屋を営んでいた。
Tさんに招かれ、Tさんの自宅兼職場で飲み会をしたときのこと…私は、しこたま酒を飲み、Tさんの家で朝を迎えた。朝…7:45くらいだったと思う。
Tさんが、パンとコーヒーを出してくれた。そして、朝の「目覚ましテレビ」が終わると同時に、Tさんが部屋のブラインドを開けた。そこには、見事に晴れ渡った青空と和歌山の山々が見えた。
「さぁ今日も頑張るかっ!」
とTさんは言った。
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社会経験に乏しい会社員の私ではあったが、当時のTさんが、独立して自営で板金屋を営んでいたのは理解することが出来た。
”そうか…ああいうTさんみたいな生き方・人生もあるんだよな…”
そこから、転職するなら、独立につながる転職をしなければならないなと思ったのだった。
整体師が突然頭に振ってきた…
とはいうものの何が良いのだろうか?
当時は、スマホもなく、転職サイトもあるのかないのかわからないような状況。
とにかく、転職にネットを活用するというのが一般的ではなかった時代だった。
今であれば、自らがスマホで様々な転職情報を集めつつ、転職エージェントに登録し、プロの意見も聞きながら、自分の意思を反映させたベターな転職を実現させることが出来ていたかもしれない。
ただ、当時の俺は、コンビニで求人雑誌を見たり、購入したり、どうすればいいのかなぁ?とぼぉっと考えてみたり…そんなことしかしていなかった。
とある休日、いつものように、起きた。起きてしばらく、布団の上でぼぉぉ~としていた。そしたら突然、
「整体師!!!!!」
と頭に言葉が降ってきた。
当時の自分は、癒しのお店に、自らの癒しと趣味で通っていた。お店側の人間になろうという発想自体を完全に忘れ去っていた。
しかし…あらゆる経験、あらゆる出来事を脳が潜在意識でこねくり回した結果、「整体師」を導き出してくれたのだ。
私にとって、言葉が頭に降ってきた経験は、人生初の出来事。稲妻が走ったような衝撃だった。
そうかぁ…整体師かぁ…。
お客様に整体をし、「ありがとうございました~」とお客様を送り出した後、窓を開ける…。
”良い風が入ってくるなぁ…そうかぁ…そろそろ桜が咲き始める頃だな…”と思いを巡らす自分…。
うん。めっちゃありだな!整体師しかないだろこれは!!
私は、すぐに、「整体師」とパソコンで検索した。そして、一番上に出てきた整体学校の体験入学の予約をしたのだった。
フィーリングで整体学校への入学を決める
待ちに待った整体学校体験入学の日…私が、整体学校の門を叩くと、1人の女性Sさんが担当として出迎えてくれた。このSさん、後に自分の上司となる方なのだが、当時はそんなところにまでは頭は回らず…
Sさんは、簡単に学校についての説明をした後、歩いて10分くらいのところにある直営整体院に連れて行ってくれた。直営整体院は、キレイで、治療院って感じだった。Sさんはそこで責任者を任されているHさんという女性を紹介してくれた。
Hさんは、白衣に身を包み、優雅な雰囲気を漂わせている女性だった。
俺は思った。”そうか…整体師になれば、白衣で先生と呼んでもらえる立場になれるのか…?人生をやり直すことが出来るのか…”
その後、再び、整体学校に戻り、Sさんからの最後の説明を受けた。最後の説明というのは、いわば入校させるための最後の口説き、クロージングなわけだが、社会経験に乏しい私はそこまで理解しているわけではなかった。
- Sさん…感じが良く、素敵な女性である。
- Hさんも素敵だった。
この整体学校に入れば、職場はあんな感じで、制服はあんな感じで関わる人はこんな感じで…
そして、SさんもHさんも当時の私のような、”自分の手に負えない仕事に押しつぶされている感”がなかった。
そうか…整体の世界、整体業界ってのはこんな感じなのか…
私はその日のうちに、入学する契約を交わした。100万円ほどのお金を支払う契約をしたのだ。
※激務のため、当時、お金はある程度貯めることが出来ていた。
人によっては、もっと比較すべきでは?もっと考えるべきでは?という人もいるだろう…。
ただ、どういうわけか自分はフィーリング、第六感で動く性質がある。比較しすぎると結局わからなくなるから決められないという性分でもある。
良かろうが悪かろうが、そんな行動・決断が自分の人生を創り上げてきた…。そして、それが俺の人生だ。40歳を超えた今、そう理解している。
入校を決めたのには、その学校が今の仕事を続けながらでも、休日を利用して整体学校に通うことが出来るシステムであるということも要因としてある。
他の整体学校ではそうはいかないだろうなぁ…と思ってしまったのだ。実際のところは他の整体学校を調べていないのでわからないが。
勤めながら休日に整体学校に通う
まずは、勤めながら休日に整体学校に通うというスタイルで学びを開始。
当時の仕事は、休みの前日は、休みの日の分も全て仕事を仕上げて休みというスタイルであるがゆえに、休みの前日は24時間勤務でした…。
ゆえに、24時間勤務した後に、寝ずにそのまま整体学校に通っていました。
こんな風に書くと、根性とか頑張りを自慢したいのか?と思われるかもしれませんが、実際、若干はそういう気持ちも含まれているでしょうね…。最近、あんまり人から褒めてもらうことないですし…。
冗談はさておき、自分にとって、
- 人生を変える、人生の方法を変えるために今が正念場
- 今、頑張らなかったら、人生ずっと、このまま嫌な職場に通い続けることになる…
- とにかく今が頑張りどころ
という風に思っていたので、頑張ったのだろうなと思います…。半年ほどの休日整体学校通いで、ある程度、先の見通しがついたので、そのタイミングで会社を辞めて、整体学校メインの生活に切り替えた。
ちなみに、そのタイミングで整体学校に通いやすい東京都某区に引っ越し、更に、結婚をしました。
にしても、よく妻の親は、俺との結婚に反対しなかったな…
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私「今、〇〇という会社に勤めてます。」
義父「どんな仕事をしているの?」
私「かくかくしかじかこんなことをやらせていただいてます。」
義父「ほう…それは、大変だけど、無くてはならない仕事だね。」
私「ありがとうございます!2か月後には辞める予定なんですけどね…。」
義父「…」
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今は、転職すること自体、かなりライトな行為になっているが、約20年前の私は、辞める前向きな理由を求めてもいた。
転職エージェントを介しての転職ならば、尚の事いい感じの大義名分がついて、会社を辞めやすいんだろうなぁと思う。今の時代の若者は恵まれているなと感じる。
「整体師になるので辞めます!」
は、まぁまぁ前向きな理由っぽくていい感じだな…と思ったことを昨日のことのように思い出す。←周囲の人間がどのように捉えていたのかはわかりませんが…。
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